アニエスカ・ホランド ポーランドから西欧、そしてアメリカへ

 ◆アニエスカ・ホランドのフィルモグラフィーについて

 *アニエスカ・ホランドのフィルモグラフィー

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 アニエスカ・ホランドのフィルモグラフィーを見てみると、テーマや内容によって、3つの時期に分けられることがわかります。それは活動の舞台がどこかということにも大きく関わっていて――
 Ⅰ.ポーランド時代(1970~82年) 22~34歳
 Ⅱ.西欧時代(1982~92年) 34歳~44歳
 Ⅲ.アメリカ時代(1993年以降) 45歳~

 Ⅰの時期は、同世代の映画仲間、映画製作集団“イクス”の連中と映画を製作していた時期で、ホランドも、最初はポーランド人の日常的なドラマを描いていたのが、次第に社会批判の度合を強めた作品を発表するようになります。
 主人公がまわりから理解されなかったり社会から排除されたりする『田舎役者』や『麻酔なし』が初期の代表作で、当時のポーランドでは体制によって人々が操作され、抑圧されているという意識が人々の深層心理にあり、ホランドやワイダは、それを映画で表したのだと考えられます。そういう意識は実際に1980年のストライキから”連帯”の誕生、そしてその反動としての1981年の戒厳令施行とホランドやワイダの活動の制限へと結びつきます。
 『熱病』や『ダントン』以降、ホランドは好んで政治的な陰謀劇を手がけるようになりますが、そうした趣向はポーランドを離れてもしばらく続きます。

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 Ⅱの時期は、ホランドがポーランドで映画を撮れなくなって、活動の舞台を西ドイツやフランスに移した時期で、『悪霊』『ワルシャワの悲劇』など“政治的な陰謀劇”からスタートしますが、題材は祖国ポーランドに根ざしたものから、ポーランドを舞台にしていてもよりグローバルな視点に立った内容の作品に変わっていきます。ポーランドに対する政治批判から「歴史に翻弄される一般市民を描く」という姿勢に変わったと言っていいかもしれません。
 のちに、ホランドは、スリラーやサスペンスなどミステリ・ジャンルに属するような作品を手がけることになるわけですが、“政治的な陰謀劇”を映画化する中でそうしたミステリ・タッチの作品に必要な人物造形や作劇などのテクニックやノウハウを修得したとも考えられます。
 作品の中に、モチーフとして同性愛が見え隠れしてくるのもこの時期から。
似たような出自にある2人の人物が環境によって全く異なる運命を享受することになるという物語のパターンもこの頃から見られるようになります。
 ホランドは、実話を基にした作品を好む映画作家ですが、そういう嗜好もこの時期にはっきりと自覚したのではないかと考えられます。
 この時期の主な作品の音楽を担当しているのがズビグニエフ・プレイスネルなので、彼の音楽がこの時期のホランド作品のトーンを印象づけていると言ってもいいかもしれません。

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 Ⅲの時期は、活動の舞台をアメリカに移したということもあって、より幅広い題材を扱うようになってきています。政治批判や社会批判は影をひそめ、純粋なエンタテインメント作品も手がけるようになりました。それは、アメリカに招かれたヨーロッパやアジアの監督がたどる典型的なパターンではありますが、さすがに興行収入のトップを争うようなスター映画やアクション大作などには手を出さないようです。
 これまでは実話を基にしても、知る人ぞ知るといった感じの、歴史の犠牲者的な人物を取り上げることが多かったのですが、アメリカにやってきてからはヴェルレーヌやランボー、ベートーヴェン、ピョートル大帝に女帝エカテリーナなど、著名な芸術家や歴史上の偉人など、より大きな反響を期待できるような題材を取り上げるようになったようです。
 犯罪を扱った作品が多い一方で、夢や希望や信念をテーマにした作品も多くなっています。これは、アメリカの観客が観たがるものを強く意識した結果でしょうか。
 アメリカにやってきてからはアンジェイ・ワイダとの関係が薄れたようで、一貫して政治性・メッセージ性のある作品を作り続けているワイダとは、かなり路線も変わってきました。
これまでのホランド作品には対権力や対組織という意識が濃厚に感じられましたが、この時期はそれが薄れ、個人と個人の関係を描くことにより関心が移ったように感じられます。

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 ◆アニエスカ・ホランド作品の特徴

 ・実話を題材にした作品がとても多い。原作がある作品も多く、何もないところから脚本を立ち上げるというのはあまり得意としていないのかもしれません。

 ・1990年くらいまでの作品には歴史に翻弄される人々を描いた作品が多い。

 ・似たような出自にある2人の人物が環境によって全く異なる人生をたどるというパターンの物語が多い。

 ・活動の舞台をポーランドから西ヨーロッパ、そしてアメリカに変えても、同じ俳優と繰り返し仕事をすることが多い。エド・ハリス、マギー・スミス、アーミン・ミュラー=スタール、ボグスワフ・リンダ、ヴォイツェフ・プショニヤックなど。
 各種の映画賞でも、作品賞や監督賞ではなく、主演男優賞や主演女優賞を受賞することが多く、俳優の才能を引き出すのが得意で、俳優たちから篤い信頼を受けている、考えてよさそうです。

 ・同性愛や性同一性障害を扱った作品も多い。

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 ◆アニエスカ・ホランド作品の常連たち

 【俳優篇】

 ・アーミン・ミュラー=スタール:『ドイツの恋』(83)、Bittere Ernte (85)、「奇蹟の詩 サード・ミラクル」(99)。

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 ・アダム・フェレンツィ:Niedzielne dzieci (76)、Aktorzy prowincjonalni(田舎役者)(78)、『熱病』(1980)、『尋問』(1982)。その他の出演作に『鉄の男』『終わりなし』『偶然』など。

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 ・アンジェイ・セヴェリン:Obrazki z zycia (74)、『ダントン』(82)、『太陽と月に背いて』(95)。*その他の出演作に『ザ・コンダクター』『鉄の男』『悲しみのヴァイオリン』『インドシナ』『シンドラーのリスト』『パン・タデウシュ物語』など。

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 ・ヴォイツェフ・プショニャック:『ダントン』(82)、Bittere Ernte (85)、『ワルシャワの悲劇/神父暗殺』(88)、『コルチャック先生』(90)。

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 ・エド・ハリス:『ワルシャワの悲劇/神父暗殺』(88)、「奇蹟の詩 サード・ミラクル」(99)、『敬愛なるベートーヴェン』(06)。

 ・ボグスワフ・リンダ:Kobieta samotna (孤独な女)(81)、『熱病』(1980)、『ダントン』(1982)。*他の出演作に『鉄の男』『パン・タデウシュ物語』

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 ・マギー・スミス:『秘密の花園』(93)、Washington Square(97)。

 ・マリア・フヴァリブク:Niedzielne dzieci (76)、Kobieta samotna (孤独な女)(81)、『コルチャック先生』(90)。

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 ・Boguslawa Schubert:『ワルシャワの悲劇/神父暗殺』(88)、『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパヨーロッパ』(90)、Julie Walking Home(02)。

 ・Krystyna Wachelko-Zaleska:Wieczór u Abdona(75)、Niedzielne dzieci (76)、Aktorzy prowincjonalni(田舎役者)(78)。

 ・Slawa Kwasniewska:Zdjecia próbne(76)、Aktorzy prowincjonalni(田舎役者)(78)、Kobieta samotna (孤独な女)(81)。

 ・Zbigniew Bielski:Wieczór u Abdona(75)、Zdjecia próbne(76)、Aktorzy prowincjonalni(田舎役者)(78)、『熱病』(1980)、『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパヨーロッパ』(90)。

 【スタッフ篇】

 ・アルトゥール・ブラウナー(プロデューサー):『ドイツの恋』(83)、Bittere Ernte (85)、『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパヨーロッパ』(90)。

 ・イジー・ジェリンスキ(撮影監督):『秘密の花園』(93)、Washington Square(97)、「奇蹟の詩 サード・ミラクル」(99)。

 ・ジャン・A・P・カズマレック(音楽):『太陽と月に背いて』(95)、Washington Square(97)、「奇蹟の詩 サード・ミラクル」(99)、「心臓を貫かれて」(01)、A Girl Like Me: The Gwen Araujo Story (06)。

 ・ズビグニエフ・プレイスネル(音楽監督):『ワルシャワの悲劇/神父暗殺』(88)、『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパヨーロッパ』(90)、『オリヴィエ オリヴィエ』(92)、『秘密の花園』(93)、『トリコロール』三部作(93)。

 ・フランシス・フォード・コッポラ(プロデューサー):『秘密の花園』(93)、「奇蹟の詩 サード・ミラクル」(99)。

 ・ヤツェク・ペトリツキ(撮影監督):Cos za cos (77)、Aktorzy prowincjonalni(田舎役者)(78)、Kobieta samotna (孤独な女)(81)、『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパヨーロッパ』(90)、「心臓を貫かれて」(01)、Julie Walking Home(02)。

 ・Isabelle Lorente(編集):『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパヨーロッパ』(90)、『オリヴィエ オリヴィエ』(92)、『秘密の花園』(93)、『太陽と月に背いて』(95)。

 ・Margot Capelier(キャスティング):『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパヨーロッパ』(90)、『オリヴィエ オリヴィエ』(92)、『トリコロール』三部作(93)、『太陽と月に背いて』(95)。

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 ◆アニエスカ・ホランドの3人の師と1人の友

 ・ミロシュ・フォアマン:チェコ国立芸術アカデミーでホランドを教える。

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 ホランドがチェコにいたのは、1966年~70年であり、ミロシュ・フォアマンがプラハの春を契機としてアメリカに亡命してしまうのは1968年ですから、ホランドがフォアマンから教わったとしても実質2年弱ということになります。そういうことも考え合わせつつ、その後のホランドの作品群を見ると、フォアマン個人に教わったということより、身近にチェコスロバキアでの文化的な規制緩和(によって作られた一連の作品)からプラハの春という一連の社会的事件を体験したことの方が大きかったのではないかと考えられそうです。
 ホランドがチェコスロバキアで学びたいと考えた理由は、おそらく当時のチェコスロバキアの映画界で、ヌーヴェルヴァーグが起きていて、その中で、「個人の解放 対 全体主義独裁」をテーマにした様々な作品の制作が許されていたことが魅力的に映ったからではないでしょうか。「個人の解放 対 全体主義独裁」をテーマにした作品を作ることという意味でも、そうした作品や映画作家がのちに権力によって押しつぶされるのを目の当たりにしたという意味においても、ホランドのチェコスロバキアでの4年間は彼女に多大な影響を与えたと考えて間違いありません。
 そうは言っても、ホランドは長年フォアマンの影響下にあったとも考えられ、ホランドも、ずっとフォアマンの動きを気にしていたというフシもあります。『太陽と月に背いて』(1995)はホランドの『アマデウス』(1984)であり、『田舎役者』(1978)はホランドの『カッコーの巣の上で』(1975)であるとも言えそうです。フォアマンがプラハの春で祖国を離れ(1968)、ホランドが戒厳令で祖国を離れる(1982)のも偶然とはいえ似ていますね。
 ちなみに、ホランドが留学していたこの時期のチェコスロバキアを代表する作品は、ミロシュ・フォアマン『ブロンドの恋』(1965/アカデミー賞外国語映画賞ノミネート)『消防士の舞踏会』(1967/アカデミー賞外国語映画賞ノミネート)、イジー・メンツェル『厳重に監視された列車』(1966/アカデミー賞外国語映画賞受賞)、ヴェラ・ヒティロヴァ『ひなぎく』(1966)などがあります。

 ・クシシュトフ・ザヌーシ:ポーランド映画界にホランドを導く。

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 国営であった1970年代初頭のポーランドの映画産業の中で、ユニークな動きをしていたのは、アンジェイ・ワイダの映画製作集団“イクス”とクシシュトフ・ザヌーシの属する映画製作集団“トール”とされ、のちに“イクス”を代表する若手監督となるホランドが、ザヌーシに導かれてポーランド映画界に入ってきたというのはちょっと面白いですね。“イクス”や“トール”の動きはのちに「モラルの不安派」(または「精神的不安のシネマ」。映画を通して現実社会の歪みを明らかにし、そうすることでその歪みを正そうという動き)と呼ばれるようになります。「モラルの不安派」と言われてもちょっとイメージしづらいという面がありますが、チェン・カイコー、チャン・イーモウ、ティエン・チュアンチュアンら第5世代の監督たちが活躍し始めた頃の中国と雰囲気がちょっと似ているのかもしれません。
 ホランドがザヌーシ・グループではなく、のちにワイダ・グループに入った理由はわかりませんが、まずザヌーシの助手となった理由は、当時のザヌーシはポーランド映画界のホープだったようで、そういう意味でホランドはザヌーシに憧れたのかもしれません(ザヌーシは1939年生まれでホランドより9歳年上、ワイダは1926年生まれでホランドよりも22歳も年上なので、映画界に入ったばかりのホランドにとってワイダという存在は巨匠すぎたのでしょう)。ちなみに、ザヌーシは1971年に『家族生活』をカンヌ国際映画祭のコンペ部門に出品しています。
 出自が同じ(または、途中まで一緒に育った)者がその後全く異なる人生を歩むというホランド作品によく見られるパターンは、ザヌーシが1969年の『結晶の構造』で試みた手法であり、現実社会からの疎外感を感じている人物の内面を描くというのもザヌーシの得意とするところなので、ホランドにとってザヌーシもまた影響力の大きな存在と言っていいかもしれません。

 ・アンジェイ・ワイダ:ホランドが属した映画製作集団“イクス”の指導者で、ホランドの才能を認めて『麻酔なし』以降、自作の脚本を多数依頼する。

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 『麻酔なし』『ダントン』『ドイツの恋』『悪霊』『コルチャック先生』と脚本に関してワイダと共同作業を行なったホランドがワイダの影響を受けないはずもなく、作劇のやり方はもちろん、自由や人権、民主主義といったテーマの選び取り方やそれを作品の中でどう表していくかなどに関しても多大な影響を受けたと考えられます。
 ホランドの監督作品の中で、最もワイダの世界観に近いのは『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ』ですが、同年はホランドが脚本を手がけた最後のワイダ作品『コルチャック先生』が発表された年でもあり、この年を最後にホランドはワイダ的世界観と決別していった(体制や組織や権力やイデオロギーを題材にするよりも、個人対個人という関係により興味が移った?)ということができるかもしれません。

 ホランドにとって、フォアマンが映画とは(または映画監督とは)どうあるべきか知らしめてくれた実人生における師であり、ザヌーシが映画の中で人間ドラマをどう組み立てればいいか教えてくれた師であり、ワイダが映画の中でどういう風にイデオロギーを表現すればいいか教えてくれた師、ということになりそうです。

 上記の3監督にはそれぞれ音楽を題材にした作品があります。フォアマンが『アマデウス』、ザヌーシが『巨人と青年』、ワイダが『ザ・コンダクター』で、それぞれ監督のカラーが出ていて面白いですね。
 『アマデウス』はその後にフォアマンが頻繁に取り上げることになるアンチ・ヒーローものに類した作品であり、『巨人と青年』はメッセージ性よりも人間ドラマを描くことに重きを置くという意味でザヌーシ的な作品であり、『ザ・コンダクター』は指揮者とオーケストラが政府と国民に対比されるという意味でワイダ的な作品と言っていいと思います。
この中で、ホランドの『敬愛なるベートーヴェン』と趣向が近いものを選ぶとしたら、ザヌーシの『巨人と青年』ということになるでしょうか。

 ・クシシュトフ・キェシロフスキ:映画についてのアイディアや脚本を検討し合う同志

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 上の3人よりも年齢が近いキェシロフスキは、師や先輩というより同志や仲間に近い存在だったようで、それはキェシロフスキの著書『キェシロフスキの世界』(河出書房新社 1996年刊)を読んでもわかります。少し長くなりますが、その部分(p118~119)を引用してみたいと思います。

画像 昔、ポーランドではお互い同士で台本を検討した。古き良き時代で、親しい友人のグループができていた。ポーランドの「精神的不安のシネマ」の時期である。アグニェシカ・ホラント、ヴォイテク・マルチェフスキ、クシシュトフ・ザヌーシ、エデク・ジェブロフスキ、フェリクス・ファルク、ヤヌシュ・キヨフスキ、それにアンジェイ・ワイダ。みな友人同士で、互いに相手から学べるという気持ちを抱いていた。皆はそれぞれ年齢も、経験も、業績も異なっていた。それでも、皆はそれぞれ自分のアイデアを語り、キャスティング、ありとあらゆる結末、その他もろもろのことを話し合った。だから台本を書いたのが仮に私であっても、本当の著者は大勢だったのだ。アイデアをくれた人はたくさんいた。たまたま過去や現在の私の人生に遭遇しただけで、知らない間に私にアイデアをくれた人々がいたことは言うまでもない。
 私たちは編集前や粗つなぎのフィルムを見せ合った。この習慣は今も変わらない。ただ、今はパートナーという意識がないし、見せ合う相手が昔ほど親しくはない。しかも、皆は世界各地に散らばってしまっているし、会う暇もない。しかし、エデク・ジュボロフスキかアグニェシカ・ホラントとは台本を検討しあう。ピェシェヴィチと一緒に書いた『トリコロール』三部作の場合は、きちんと契約して検討しあった。二人は私の台本アドバイザーとなることに同意し、その金を支払った。各台本について二日ほど話し合った。第一作に二日、第二作に二日、第三作にさらに二日という具合だ。私は再三にわたって質問した。

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 ◆『敬愛なるベートーヴェン』について少しだけ

画像 ・アニエスカ・ホランドに関する一般的なイメージは、『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ』『オリヴィエ オリヴィエ』『秘密の花園』『太陽と月に背いて』という4作品から得られたものだと思いますが、それらと『敬愛なるベートーヴェン』とでは何か決定的な違いがあるという印象を受けました。で、こうして調べてみたわけですが、やはり映画監督としてのホランドに大きな心境の変化があったようで、1993年以降のホランド作品は、彼女が西ヨーロッパで活躍していた時期とは題材もエモーションも変わってしまっています。


 ・『敬愛なるベートーヴェン』の持つ世界観がこれまでの4作品とかなり違うので、ひょっとしてこれはエド・ハリスの持込み企画で、彼女はただ監督に徹しただけなのかとも思いましたが、そうでもないようで、ホランド自身は、難聴という状況に追い込まれながら、その作品自体は研ぎ澄まされたものになっていくあの時期のベートーヴェンに興味を持った、というようなことを語っています。

 ・コンスタントに映画を撮り続ける映画監督であれば、1本くらいは実在の音楽家に関する映画を作るもので、その音楽家の選び取り方に映画監督としての好みや資質が表われるものですが、それがホランドの場合はなぜベートーヴェンなのかは『敬愛なるベートーヴェン』を観ただけではよくわかりません(ホランド本人には『田舎役者』あたりの延長線上にある作品という認識があるかもしれませんが)。ひょっとすると、孤高で、苦悩の道を歩んだベートーヴェンにホランドが自分を重ねているのでしょうか?
 アンナ・ホルツというのが実在の人物で、これが秘められた真実であり、新たに発掘された美談であるなら、それはそれでいいのですが、彼女が架空の人物(実在した複数の人物からのエピソードを寄せ集めしたような人物)であってみれば、話はまた変わってきます。
 指揮者を、指揮し、アシストするもうひとりの指揮者がいたという発想は、美談というよりは孤高の音楽家への冒涜になる可能性もあり、ちょっと危ういですね。実際問題として、ステージから離れたところから行き届いた「指揮者への指揮」ができるわけがありませんし。
 主人公にメジャーな人物を出してきて、映画の製作予算もアップしたでしょうが、作品としてのスケールやテーマはむしろ小さくなってしまった気がします。ホランドが約20年前に脚本を手がけた『アンナ』がその後のホランドの人生にとってどこか暗示的だと思ったり、というと皮肉が過ぎるでしょうか。

 ・まあ、私としては、『敬愛なるベートーヴェン』そのものよりは、映画監督として変化し続けるアニエスカ・ホランドという生き方、その関心のあり方への変化により興味を覚えたと言っていいかもしれません。フォアマン、ザヌーシ、ワイダ、キェシロフスキの生き方とホランドのそれを比べてみても面白いですよね。

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 ◆今後のアニエスカ・ホランドについて

 アメリカを活動の舞台とする限り、著名な芸術家や歴史上の偉人を映画の題材として取り上げたり、サスペンスやスリラーといったジャンルのテレビ・シリーズを手がけたりすることにはなると思いますが、このところアメリカで活躍した映画監督が祖国に戻って映画を作るといったケースもふえているので、今後、ホランドもそうする可能性は多分にあります。
 自らも身近に体験したはずのプラハの春を題材にした物語や、ヴァーツラフ・ハヴェルに関する物語、戒厳令試行前後のポーランド映画が熱かった時代の青春群像の映画などを手がけてみたら面白いと思うのですが、どうでしょうか。

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