もっとシュヴァンクマイエル スタッフ&カンパニー篇

 ヤン・シュヴァンクマイエルの作品のスタッフや製作会社(およびシュヴァンクマイエルを語る時に欠かせない人物や団体)について調べてみました。まあ、日本でたくさん出ているシュヴァンクマイエル本にもきちんと整理した形でこうしたことが載っているものが1冊もないからなんですが……。
 シュヴァンクマイエル作品がどのようにしてできるのか、その謎にちょっとは迫ることができる内容になっていると思います。

 A・ハンス・プルイ オーストリアのリンツにあるスタジオAのプロデューサー。
 「石のゲーム」(1965)と「ワイズマンとのピクニック」(1969)のプロデュースを手がける。

 アタノル・フィルム・プロダクション・カンパニー シュヴァンクマイエルとプロデューサーであるヤロミール・カリスタが1989年11月に共同で設立した映画会社。
 『ファウスト』(1994)をコーニンク・インターナショナル(英)他と製作、『悦楽共犯者』(1996)をデルフィルムス(スイス)とコーニンク・インターナショナル(英)と製作、『オテサーネク』(2000)をフィルム・フォー(英)とイルミネーションズ・フィルムズ(英)と製作、『ルナシー』(2005)をチェスカ・テレビ(チェコ)と製作。

 イヴォ・シュパリ 『地下室の怪』以降のほとんどのシュヴァンクマイエル作品の音響を手がける。
 担当作品は、「地下室の怪」(1982)、「陥し穴と振り子」(1982)、『アリス』(1987)、「男のゲーム」(1988)、「アナザー・カインド・オブ・ラブ」(1988)、「肉片の恋」(1989)、「闇・光・闇」(1989)、「スターリン主義の死」(1990)、「フード」(1992)、『ファウスト』(1994)、『悦楽共犯者』(1996)、『オテサーネク』(2000)、『ルナシー』(2005)。
 シュヴァンクマイエル以外の作品は、『アマデウス』(1984)、ブジェチスラフ・ポヤル他「ナイトエンジェル」(1986)、ブジェチスラフ・ポヤル「蝶々の時間」(1990)、パヴェル・コウツキー「ネズミ、万歳!」(1993)、「マシュキンはコシュキンを殺した」(1995)、ヤン・スヴィエラーク『コーリャ 愛のプラハ』(1996)、パヴェル・コウツキー「決闘」(1997)など。

 イジー・ヴァニェク クラートキー・フィルムのプロデューサー。
 「棺の家」(1966)、「エトセトラ」(1966)、「部屋」(1968)、「家での静かな一週間」(1969)、「ジャバウォッキー」(1971)、「レオナルドの日記」(1972)のプロデュースを手がける。

 イジー・シャファーシュ チェコの撮影監督。
 イジー・トルンカの「天使ガブリエルと鵞鳥夫人」(1964)と「手」(1965)、“パットとマット”シリーズ(1976)などの作品を手がける。
 シュヴァンクマイエル作品では、「エトセトラ」(1966)、「レオナルドの日記」(1972)、「オトラントの城」(1973-79)を担当。

 ヴィエラ・ベネショヴァー 編集者。
 シュヴァンクマイエル「男のゲーム」(1988)、「闇・光・闇」(1989)、パヴェル・コウツキー「決闘」(1997)、ブジェチスラフ・ポヤル“Narkoblues”(1997)などを担当。

 ヴラチスラフ・エフェンベルゲル(1923-86) チェコのシュルレアリスムの理論家。
 シュヴァンクマイエルは、1970年にシュルレアリスムのグループに入って、そこでエフェンベルゲルと出会い、それまでの自分はシュルレアリストとしていかに表面的でしかなかったと述懐している。
 「シュルレアリスト・グループに参加したことによって、私の人生のひとつの段階が終わり、別の段階になりました」(『シュヴァンクマイエルの世界』p65)「エフェンベルゲルは言葉の真の意味での導師です。呪われた運命の偉大な詩人です」(『シュヴァンクマイエルの世界』p66)
 「夜想34」では、「アッシャー家の崩壊」に関して、エフェンベルゲルがシュヴァンクマイエルに対して行なったインタビューが掲載されています(p69)。

 エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァー(1940-2005) 画家。シュヴァンクマイエルの公私にわたるパートナー。2005年10月20日 逝去。
 1960年に兵役から戻ったヤン・シュヴァンクマイエルと出会い、結婚(プラハ芸術大学で既に出会っていた、という発言もある)。
 シュヴァンクマイエル作品では、(クレジットされているものでは)「シュヴァルツェヴァルトとエドガルド氏の最後のトリック」(1964)に出演、「庭園」(1968)で衣裳を担当、『アリス』(1987)、『ファウスト』(1994)、『悦楽共犯者』(1996)、『オテサーネク』(2000)、『ルナシー』(2000)で美術に参加。
 「彼女は残酷なものが好き」とはシュヴァンクマイエルの弁で、チェコの民話を発端とする『オテサーネク』も、元々はエヴァが興味を持っていたものだった。
 2001年に『オテサーネク』のプロモーションのために一度だけ来日を果たしている。
 エヴァの作品と仕事に関しては『造形と映像の魔術師 シュヴァンクマイエル展』が詳しい。『シュヴァンクマイエルの世界』では、p96に彼女に関する発言あり。
 当サイトの関連記事は、http://umikarahajimaru.at.webry.info/200605/article_7.html

 エミル・ラドク(1918-94) チェコの映画監督。
 シュヴァンクマイエルは、人形劇から着想を得て作られたラドクの映画「ヨハネス・ドクトル・ファウスト」(1958)で、既に彼と知り合っていたが、1962年にラテルナ・マギナに移って以降、さらに親しくなり、彼から多大な影響を受けた。兄は、演出家・舞台芸術家のアルフレート・ラドク(1914-76)で、ラドク兄弟と舞台美術家ヨゼフ・ズヴォボダ(1920- )が視覚芸術ラレルナ・マギカの中心人物であった。
 エミル・ラドクの監督作品には、“Laterna Magika Ⅱ”(1960)、“Universe of Energy”(1982)などがある。

画像 MTV アメリカのケーブルテレビ・チャンネル。映画の製作も手がける。
 シュヴァンクマイエル作品では、「肉片の恋」(1989)をノマト・フィルムス(西独)とコーニンク・インターナショナル(英)と製作、「フローラ」(1989)を製作。
 MTVのための2作品に関しては、『YASO 2-:+ #0 シュヴァンクマイエル』のp36にシュヴァンクマイエルのコメントがある。

 クラートキー・フィルム・プラハ プラハにある映画会社。シュヴァンクマイエル作品を製作していた頃は国営。バランドフに人形アニメ中心のトルンカ・スタジオとセル・アニメ中心のトリック・ブラザーズという2つのスタジオを持ち、ゴットヴァルドに1つスタジオを持っていた(ゴッドバルドのスタジオは、その後、アメリカのボントンに買収されて、1999年にアトリエ・ボントン・ズリーンとなる)。
 トルンカ、バルタ、ポヤル、ルネ・ラルー、川本喜八郎らもここで学ぶ。
 シュヴァンクマイエルの監督作品では、1988年の「男のゲーム」までのほとんどの作品と1989年の「闇・光・闇」の製作を手がける(全18作品)。例外は、オーストリアのリンツにあるスタジオAが製作した「石のゲーム」(1965)と「ワイズマンとのピクニック」(1969)、スロヴァキアのスロヴェンカー・フィルモヴァー・トヴォルバが製作した「地下室の怪」(1982)、スイス・ドイツ・イギリス合作となった『アリス』(1988)。
 イジー・トルンカは半世紀にわたってここのプロデューサーだったが、シュヴァンクマイエルの場合は、クラートキー・フィルムに雇用されたわけではなく、持ち込んだ企画が採用された場合にのみ、ここで映画制作を行なった。
 国営なので検閲での厳しいチェックがあり、「オトラントの城」(1973-79)から1980年の「アッシャー家の崩壊」までの間はシュヴァンクマイエルは映画撮影を禁じられた。次の「対話の可能性」(1982)が上映禁止になったあと、「地下室の怪」(1982)は国外で制作。国内での撮影が許されて「陥し穴と振り子」(1983)を制作したが、「男のゲーム」(1988)まで再び国内で映画を撮ることができなくなった(「男のゲーム」の前に国外で『アリス』(1988)を制作)。
 川本喜八郎監督作品『いばら姫または眠り姫』(1990)もここで製作された。
 現在のクラートキー・フィルム・プラハ(http://www.kratkyfilm.cz/)は、国営だった前身のクラートキー・フィルム・プラハの、トルンカ・スタジオとトリック・ブラザーズで作られた作品を買収して1991年に設立された。
 1996年にユーロスペース配給で劇場公開された<ヤン・シュワンクマイエル 限りなき妄想の増殖>の諸作品群は、ここ以外で製作された作品を集めたプログラムということになる。

 国立芸術アカデミー シュヴァンクマイエルが学んだ学校(1954-58)。
 シュヴァンクマイエルが卒業したのは、多くの映画監督やアニメーターを輩出している映画学部(通称FAMU)ではなく、演劇学部(DAMU)人形劇科(1954-58)。
 1990年になって映画学部にアニメーション学科が出来、アウレル・クリムト、マーリア・プロハースコーヴァー、ミハル・ジャプカらが学んでいる。

 コーニンク・インターナショナル イギリスの映画会社。
 ブラザーズ・クエイ作品の製作会社として知られ、「ギルガメッシュ/小さなほうき」(1985)、「スティル・ナハトⅠ」(1988)、「失われた解剖模型のリハーサル」(1988)、『ベンヤメンタ学院』(1995)、“The Piano Turner of Earthquake”(2005)などのほか、ガイ・マディン監督作品“Odilon Redon or The Eye Like a Strange Ballon Mounts Toward Infinity”(1995)なども製作。
 シュヴァンクマイエル作品では、「アナザー・カインド・オブ・ラヴ」(1988)をヴァージン・レコード(英)とノマト・フィルムス(西独)と製作、「肉片の恋」(1989)をMTV(米)とノマト・フィルムス(西独)と製作、「フード」(1992)をチャンネル4(英)とハート・オブ・ヨーロッパ・プラハ(チェコ)と製作、『ファウスト』(1994)をBBCブリストル他と製作、『悦楽共犯者』(1996)をアタノル(チェコ)とデルフィルム(スイス)と製作。

 シュヴァンクマイエルの制作チーム 現在のシュヴァンクマイエルは、公私ともにパートナーであるエヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーを含め、気心の知れたチームで制作を行なうようになっている。ベドジフ・グラセルは『アッシャー家の崩壊』(1980)からアニメーターとして参加し、ミロスラフ・シュパーラも『アッシャー家の崩壊』以降の撮影を担当(近作はユライ・ガルヴァーネクにバトンタッチ)。音響のイヴォ・シュパリは『地下室の怪』(1982)からシュヴァンクマイエル組の常連となり、編集のマリエ・ゼマノヴァーとプロデューサーのヤミロール・カリスタも『アリス』(1987)からこのチームに加わっている。さらに、ヤミロール・カリスタは、1989年にシュヴァンクマイエルと共同でアタノル・フィルム・プロダクション・カンパニーを興し、『ファウスト』(1994)以降の全作品の製作を行なっている。
 こうしたチームが編成されてきた背景には、国際的なプロジェクトで映画を比較的スムーズに製作できるようになってきたこととチェコの民主化の流れがあり、それといくつもの作品で上映禁止や国内での制作禁止を被りながら、作りたい作品を作るためには自分の意志を曲げなかったシュヴァンクマイエルに対して、次々と理解者・協力者が増えた結果、と言えるかもしれない。

 スヴァトプルク・マリー 長年にわたってシュヴァンクマイエルと組む撮影監督の1人。
 担当作品は、「シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック」(1964)、「J・Sバッハ G線上の幻想」(1965)、「庭園」(1968)、「部屋」(1968)、「家での静かな一週間」(1969)、「ドン・ファン」(1970)、「コストニツェ」(1970)、『アリス』(1987)、「アナザー・カインド・オブ・ラブ」(1988)、「肉片の恋」(1989)、「フローラ」(1989)、「フード」(1992)、『ファウスト』(1994)。
 シュヴァンクマイエルとは、エミル・ラドクの映画「ヨハネス・ドクトル・ファウスト」(1958)で出会う。
 シュヴァンクマイエル作品以外では、シュヴァンクマイエルも一時所属した劇団であるラテルナ・マギカについてのドキュメンタリー“Kouzelná svítilna”(1975 /Jirí Lehovec監督)などがある。

 ズデニェク・リュシュカ チェコの音楽家。シュヴァンクマイエルの初期の作品の音楽を手がける。シュヴァンクマイエルとの出会いは、エミル・ラドクの映画「ヨハネス・ドクトル・ファウスト」(1958)。
 担当作品は、「棺の家」(1966)、「エトセトラ」(1966)、「自然の歴史(組曲)」(1967)、「部屋」(1968)、「ドン・ファン」(1970)、「ジャバウォッキー」(1971)、「レオナルドの日記」(1972)、「オトラントの城」(1973-79)。
 ズデニェク・リュシュカ亡き後、シュヴァンクマイエルは彼に代わる人物をついに見つけることができなかったという嘆きに似た思いにかられている。
 ズデニェク・リュシュカに関しては、『YASO 2-:+ #0 シュヴァンクマイエル』のp37にシュヴァンクマイエルによるコメントがある。

 セマフォル劇場 シュヴァンクマイエルが兵役後、初めて入団した劇場(1960-62)。シュヴァンクマイエルはここで仮面劇団を結成し、『ヨハン・ファウスト博士』などを上演するが、経営サイドと方針が合わず、劇団を引き連れて、ラテルナ・マギナに移る。ここで、エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーと出会う。

画像 トルンカ・スタジオ クラートキー・フィルム・プラハの持つスタジオのうち、主に人形アニメの製作を行なった国営のアニメーションスタジオ。
 シュヴァンクマイエル作品では、「棺の家」(1966)、「エトセトラ」(1966)、「部屋」(1968)、「家での静かな一週間」(1969)、「レオナルドの日記」(1972)、「オトラントの城」(1973-79)、「アッシャー家の崩壊」(1980)、「対話の可能性」(1982)、「陥し穴と振り子」(1983)、「闇・光・闇」(1989)を製作。
 クラツキー・フィルムとトルンカ・スタジオのロゴ・マークはほとんど同じで、ともに翼をはばたかせる天馬で、そのまわりに“LOUTKOVY FILM PRAHA”とあるか、“STUDIO JIRIHO TRNKY PRAHA”とあるかという違いだけ(デザインは若干異なる)。

 ノマト・フィルムス (西)ドイツの映画会社
 マチュー・カソヴィッツの『カフェ・オ・レ』(1993)、ローランド・ジョフィーの『宮廷料理人ヴァテール』(2000)、アラン・タネールの“Le Journal de Lady M”(1993)ほか、ラウル・ルイス作品などの製作を手がける。
 シュヴァンクマイエル作品では、「アナザー・カインド・オブ・ラブ」(1988)をヴァージン・レコード(英)とコーニンク・インターナショナル(英)と製作、「肉片の恋」(1989)をMTV(米)とコーニンク・インターナショナル(英)で製作、「スターリン主義の死」(1990)をBBCと製作。

画像 フィルム・フォー・インターナショナル イギリスの映画会社。
 『アリス』(1987)をスイスと西ドイツ(ノマト・フィルムス)の映画会社と製作、『オテサーネク』(2000)をアタノル(チェコ)とイマジネーション・フィルムズ(英)と製作。

 ブラザーズ・クエイ イギリスの映画作家。シュヴァンクマイエルを敬愛し、1984年に「ヤン・シュヴァンクマイヤーの部屋」を制作。
 シュヴァンクマイエル自身は、彼に関する映画を作りたいと言ってきたクエイ兄弟に会って、多くの共通点があることに気づいたが、彼らが人工的な世界を構築するのに対して、自分の作品はあくまでシュルレアリスムであると言って、全く別物であることを強調している。

 ベドジフ・グラゼル アニメーター。
 1957年 プラハ生まれ。1976~83年クラートキー・フィルムに勤務。のちにフリーに。
 アニメーターとして活躍するほか、挿絵、広告デザイン、ビデオクリップなども手がけ、2004年には“Samotář”で監督デビュー。2005年には監督第2作“Host”を発表した。
 シュヴァンクマイエル作品での担当作品は、「アッシャー家の崩壊」(1980)、「陥し穴と振り子」(1983)、『アリス』(1987)、「男のゲーム」(1988)、「アナザー・カインド・オブ・ラブ」(1988)、「肉片の恋」(1989)、「フローラ」(1989)、「スターリン主義の死」(1990)、「フード」(1992)、『ファウスト』(1994)、『悦楽共犯者』(1996)、『オテサーネク』(2000)、『ルナシー』(2005)。
 「彼は有能なアニメーターであるばかりか、芸術家でもあり、空間にたいして申し分のない記憶力を持ち合わせているのです。そして、そのおかげで、彼は三次元アニメーションに必要なことにすばやく対応できるのです」(『シュヴァンクマイエルの世界』p62)。
 シュヴァンクマイエル作品の中に、粘土が使われ始めるのはシュヴァンクマイエルとグラゼルと組んだ最初の作品「アッシャー家の崩壊」からであり、「男のゲーム」を除けば、クレイ・アニメーションが使われている作品はすべてグラゼルと組んだ作品ばかり。シュヴァンクマイエルが自分の作品に粘土を活用するのに、グラゼルとの出会いはとても大きかったのかもしれません。
 『フード』では出演もしています。
 公式サイト:http://www.bedrichglaser.cz/cz/cv.htm

 ペーター・プルイ 撮影監督。リンツで制作された「石のゲーム」(1965)、「ワイズマンとのピクニック」(1969)を担当。

 ヘレナ・レブドゥシュコヴァー 編集者。
 イジー・トルンカの『皇帝の鶯』(1948)と『チェコの古代伝説』(1952)、“パットとマット”シリーズ(1976)、イジー・バルタ「笛吹き男」(1985)を担当。
 シュヴァンクマイエル作品では、「棺の家」(1966)、「エトセトラ」(1966)、「家での静かな一週間」(1969)、「ジャバウォッキー」(1971)、「レオナルドの日記」(1972)、「オトラントの城」(1973-79)、「アッシャー家の崩壊」(1980)、「対話の可能性」(1982)、「陥し穴と振り子」(1983)を担当。

 マリエ・ゼマノヴァー 『アリス』以降のシュヴァンクマイエル作品の編集を担当。
 1943年 フリーストフ生まれ。1960年代半ばからチェコスロバキアテレビのアニメ制作部門に勤める。1990年にフリーに。
 シュヴァンクマイエル作品での担当作品は、『アリス』(1987)、「アナザー・カインド・オブ・ラブ」(1988)、「肉片の恋」(1989)、「フローラ」(1989)、「スターリン主義の死」(1990)、「フード」(1992)、『ファウスト』(1994)、『悦楽共犯者』(2000)、『オテサーネク』(2000)、『ルナシー』(2005)。

 マルチン・クブラーク アニメーター。
ベドジフ・グラゼルとともに最近のシュヴァンクマイエル作品のアニメーターを担当(『悦楽共犯者』(1996)、『オテサーネク』(2000)、『ルナシー』(2005))。

 ミラダ・サートコヴァー シュヴァンクマイエルの初期の作品の編集を担当。
 担当作品は、「シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック」(1964)、「J・Sバッハ G線上の幻想」(1965)、「自然の歴史(組曲)」(1967)、「庭園」(1968)、「ドン・ファン」(1970)、「コストニツェ」(1970)。

 ミロスラフ・シュパーラ 「アッシャー家の崩壊」(1980)以降の作品で、シュヴァンクマイエルと組む撮影監督。
 担当作品は、「アッシャー家の崩壊」(1980)、「陥し穴と振り子」(1983)、「男のゲーム」(1988)、「闇・光・闇」(1989)、『悦楽共犯者』(1996)。
 シュヴァンクマイエル作品以外では、ヤン・バレイの「カバってどんな感じ」(2000)、ヤン・バレイ、アウレル・クリムト、ブジェチスラフ・ポヤルらによる「フィムファールム2」(2006)などがある。

 ヤロミール・カリスタ プロデューサー。
 1939年 プラハ生まれ。国立芸術アカデミー映画学部(FAMU)卒業後、1970年までバランドフ映画スタジオに勤務。その後フリーに。1973年から1988年までラテルナ・マギカのプロデュースを担当。
 『アリス』以降のほとんどのシュヴァンクマイエル作品のプロデュースを手がける(「アナザー・カインド・オブ・ラブ」「肉片の恋」「フローラ」「スターリン主義の死」「フード」「ファウスト」『悦楽共犯者』『オテサーネク』『ルナシー』)。「フード」では出演もしている。
 シュヴァンクマイエルとの出会いは、ラテルナ・マギナを通じてで、1989年11月にアタノル・フィルム・プロダクション・カンパニーをシュヴァンクマイエルと共同で設立する。

 ユライ・ガルヴァーネク 近年のシュヴァンクマイエル作品の撮影を手がける。『ルナシー』ではプロデュースにも関わる。
 担当作品は、「地下室の怪」(1982)、『オテサーネク』(2000)、『ルナシー』(2005)。

 ヨゼフ・ソウクプ クラートキー・フィルムのプロデューサー。
 「シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック」(1964)、「庭園」(1968)、「コストニツェ」(1970)、「ドン・ファン」(1970)をプロデュース。

 ラテルナ・マギナ シュヴァンクマイエルがセマフォル劇場で結成した劇団を引き連れて移った劇場(1962-64)。ここを離れてからは、フリーの立場で活動することになる。
 シュヴァンクマイエルは、ここで演出家とプラハ・チェルネー・ヂヴァドロのリーダーを務める。映画監督エミル・ラドクと出会い、初めて映画の世界と関わることにもなる。

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